2月11日

体調のバランスを崩し、寝込んだ。

心当たりがあるとすれば少しばかりの環境の変化だろうか。

詳細は伏せるが社会的な結果を出した。純粋に祝福してくれる人もいるが、そうでないこともそれなりに多い。だから自分から話すことはないのだが、被害妄想だけはいくらでも捗る。

 

母親から、親族から、妬まれて生きてきた。

比較的街中で生を受けたことと勉強ができたことが決定打のように思う。あるいはただそこにいたからだけかもしれない。

田舎に嫁ぐことは相当のストレスであることは承知ではあるが、県内の集落に住む血の繋がらない伯母からのストレスは死にたくなるには十分だった。

わたしはの人生はそれなりに忙しなく、醜聞的な興味をそそられるものだとは思うが集落中で話題にし娯楽として消費されることを甘んじて受けるつもりはない。とはいえわかりやすく目に見える行為はない。陰湿だった。「あなたが心配なのだ」と言えばすべてが誤魔化される。だからわたしは今でも「あなたのことが心配だ」という言葉が嫌いだ。

 

わたしは勉強のできる子どもだった。

成績の良さでマウントを取られると反応に困ってしまうくらいにはできた。とはいえ自らすすんで勉強をしたわけではないので学歴自体はそこまで華々しくはないのだが。

小学生で進学塾に通っていた。夜10時を過ぎて家に帰ると家族は寝静まったあとで、一人分の夕食が残されていた。それをレンジで温め食べていた。この食事を母の優しさだと思っていた。

勉強の目的がわからないので家庭学習の習慣はほとんどなく、翌日のテストのための暗記をする程度。宿題すら放棄していた。それでも県内トップ集団だった。学習塾では場面緘黙でひとことも発せなかったが、成績さえよければ存在くらいは許された。

時代もあったが、学習塾に通うことは子ども同士におけるある種の裏切り行為にあたる。学校に居場所はあまりなかった。放課後すぐに学習塾に向かう。そのことについて疑問はなかったが、のちに気付いたのはわたしは親族同士のマウントの駒にされてたってこと。同い年の親戚の男の子が近所におり、わたしは彼と競わされていたようだ。

そういえば母には「あなたは〇〇学校に入学したから宝物なのよ」と言われた。

高校卒業まではそれなりにチヤホヤされたが大学を小さな国立大学に決めて以来わたしの過去一切を誰も語らなくなった。

小学5年生で一度死のうとしたが、怖くなってやめた。

 

そんな母の機嫌が最近よい。理由は言わずもがなだ。いつ伯母の耳に入るかわからない。被害妄想だけが捗り頭痛がする。

週末に学習の予定が詰まっているうちは余計なことを考えないで済んだ。今は時間がある。

睡眠時間が確保でき健康的になりはしたが、メンタルのバランスはあまりよろしくない。

物理的な身の置き場があればよいのだが、そんなものはない(カフェくらいか)

孤独を埋めるように本ばかりを読んでいる。