唯識のはなし

唯識という仏教一領域にハマった。
理由は難解そうだから。
本屋で出会った唯識入門という本が入門を謳いながらさっぱり理解できなかったからノートを取りながら時間をかけて読んでみた。
難しい本を読んでいる間は雑念が消えるのだ。

唯識はその教義を提導する学派の名前を瑜伽行唯識学派と呼び、ヨガ(瑜伽/ゆが)の実践のなかで悟りの境地を目指し心の作用だけは仮に存在すると考える。
個人にとってのあらゆる存在は心の作用による表象に過ぎず、その作用は8種類の識に分類される。
八種類の識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前五識(平たく言うと五感)と、意識、そして末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)という2層の無意識を指す。
深層心理である末那識と阿頼耶識、簡単に説明するならば前者は自我への執着で後者は自己存在の確信といったところか。
前五識は簡単に途絶える(目を閉じる、耳を塞ぐ、深く眠る、等)が阿頼耶識という永遠の過去から続く潜在意識はそれまでの全ての感覚の記憶を保有し、
現在の生が尽きても輪廻転生により全ての記憶を持ったまままた未来の生が始まるのだ。
なお末那識も途切れることなく続いており、この自我執着を手放すことにより悟りの境地に近づくことができる。

唯識の考え方は大乗仏教(生きとし生けるものすべてを救う⇔小乗仏教/修行した者が救われる)だが、
大乗仏教のなかでは唯一救済されない者の存在がある。我々衆生が仏になることができる理由、原因を仏性(ぶっしょう)と呼ぶのだが
あまりに仏の教えに耳を貸さない者は悟ることができない。
つまり地位や権力、財産のみに価値を置く者は救済されることはない。
わたしはこれについて、内省の必要性を説くものだと考えていて、唯識のもっとも気に入っている部分でもある。

仏教では、執着を手放してこころを楽にしていく。
すべてはぼんやりと繋がっていて、強い苦しみも深い悲しみもただそこにあるだけで実体は無く流動的に移り変わっていく。
ヨガの重要な要素である呼吸を意識し、感情も目の前の景色もただ自分が認識しているだけだと知る。
そのようにしてこころの緊張を解いていく。
この考え方をわたしは気に入っている。

んーーーー!!
アウトプットって難しいな!!勉強ノートを見返してみたけどほっとんど覚えてないし!!
唯識」って字面、かわいいよね!!

さて、週末だからゆっくり寝る。

もっとこう、出力していかないともったいない!!
というわけで唯識についてはまた書きたいと思う。

 

おやすみなさい